頭の中に種をまく

その時々に読んだもの、見たもの、聞いたものについて考え、紹介します。

意志の姿勢を正すこと - 詩: 伊藤静雄「わがひとに与ふる哀歌」

何か思い通りにいかないことがあったときに――とくに、人との関係でうまくいかないことがあったときに――しばしば心に浮かび、気持ちを切り替えさせてくれる詩があります。伊藤静雄の「わがひとに与ふる哀歌」という詩です。以下に引用します。

 

わがひとに与ふる哀歌

 

太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讚歌を
あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如かない 人気ない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに

 

 

私はこの詩を暗記しています。詩を理解しようとするとき、それがあまり長い詩でなければ、私はまずその詩を暗記してしまうことにしています。詩というものは、とくに、それが深い意味をもつものであればあるほど、時間をおくほどに新しい意味を提示してくれるものです。そのために、何度も読み返してももちろんよいのですが、暗記をしておくと、日々の生活の出来事が引き金となってある一節が不意に心に浮かび、その詩がより豊かなものであると気づかされることがあります。こういう経験が私は大好きで、そのためにも、よく分からないけれども好きだという詩があれば、よく暗記をしたものでした。

 

さて、「わがひとに与ふる哀歌」ですが、この中でも私が一番好きなフレーズは、「私たちの意志の姿勢で」という部分です。この「意志の姿勢」という言葉が、この詩が語ろうとしていること(の少なくとも一面)を集約しているように思います。意志というものは形のない目に見えないものですが、一方、姿勢というのは目に見えるものに使う言葉です。「意志の姿勢」という言葉は論理的には不可解なものです。

 

しかし、「意志の姿勢」という表現は、自然に心に入ってくるようにも思います。意志には形はないけれども、たとえばまっすぐな意志とか、曲がった意思といったものは、比喩である以上に、心の具体的な状態をも表している気がします。

 

そして、その「意志の姿勢」によっては、人々が何の変化もないとみなすような鳥の鳴き声や草木の囁きも、「無辺な広大の讃歌」となるのです。心がけ次第で同じものも違って感じられるということは、誰もが知っている真理でしょう。しかし、日常においては、一度こうだと思ったものに対して、改めて違った捉え方を試みることは、ほとんどないのではないでしょうか。そうして、人生を退屈なものにしてしまうのです。

 

この詩は、ときおり心に浮かんでは、自分の「意志の姿勢」がきちんとしているかと、自問させてくれます。また、人との関係がうまくいかないときには、その人の「意志の姿勢」がどのようなものかと考えさせてくれます。

 

常にまっすぐな「意志の姿勢」を保ちたいものです。

 

 

伊東静雄詩集 (岩波文庫)

伊東静雄詩集 (岩波文庫)