頭の中に種をまく

その時々に読んだもの、見たもの、聞いたものについて考え、紹介します。

他者の生活に配慮した働き方ができないものか

仕事をしていて一つどうしても慣れないことがあります。夕方に仕事の電話やメールをすることです。社内の人相手ならまだしも、社外の相手だと、その電話やメール一本で関係を損ねてしまうのではないかと、心配になってしまいます。それは、私自身が夕方に仕事の連絡を受けたくないことの裏返しです。


人によって理想的な働き方は様々でしょう。独身であればいくらでも仕事をして構わないかもしれませんが、家族がいれば家族との時間を確保せねばなりません(家族をかえりみずに働く人も大勢いるようですが…)。仕事が終われば、大切な家族との約束、友人との約束、自分の趣味、自己投資など、その人独自の時間が始まります。そうした他者の時間は、尊重してしかるべきです。


前職では海外とのやりとりばかりでしたので、時差の都合で、相手が働いている時間にだけ連絡を取るということは不可能でした。しかし、相手の勤務時間外にメールを送ることはあっても、電話をすることはありませんでした。とくに家族を大切にする文化の人にそれをしたら、信頼関係を大きく損なう恐れがあります。


そうした環境で働いてきたこともあり、夕方とか、ましてや休日に連絡を取るということは、私にとっては、相手のことを思いやることのない、恥ずかしい行為です。こうした仕事中心の文化が廃れて、他者の生活を慮れる社会とならないものかと、切に願います。

禅とはいかなる宗教か - 書評: 鈴木大拙『禅とは何か』

鈴木大拙の『禅とは何か』を読みました。禅の何を学びたいかによって、満足度に差が出る本だと思いました。


タイトルは『禅とは何か』ですが、そのスコープは禅や仏教にとどまらず、「宗教とは何か」というところまで議論が及びます。その一方で、禅がいかに成立してきたかといった、個別的な歴史も紹介されています。


しかし、禅の実践について具体的なことは書かれていません。たとえば、経典の成立した背景についての説明はあっても、その経典の内容を解き明かすといったことはされていません。このため、座禅をどのようにするかとか、公案にはどのようなものがあるかといった、具体的な作法について学びたい人にとっては、適切ではありません。


ただし、禅に、あるいは仏教に多少なりとも興味があるのなら、ぜひ一読を勧めたく思います。鈴木大拙という大学者の知性と知識があらゆるところに散りばめられて、ひたすらに圧倒されます。とくに、これは講義の口述をもとにしたもので、さすがに下準備はあるのでしょうが、こうした知識が口頭にて次々に披瀝されるのは、聴衆にとっては圧巻だったのではないでしょうか。


さて、内容については、ひとつだけ、とくに印象に残った一節を引用してみます。


出家ということだけでは仏教は小さくなる。仏教は在家宗に帰らなければならぬ。


仏教が宗教として拡大するためには、限られた人々が世間から離れて修行するだけでなく、世間一般の人々をも巻き込んでいかねばならない。宗教は、純粋であろうとすればするほど、世間からは離れていく。だから、宗教は世間と結びついたものでなければ存続できない。このための絶妙なバランス感覚が宗教の発展のために必要であることは、あたかも、宗教が生き物であるかのように思わせる洞察でした。

 

 

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

 

 

自分の嗜好を知ることで判断を促す

10月の終わりごろから、日々の幸福感、体調、集中力、睡眠時間などを記録しています。これを振り返ることで、自分がどのようなときに調子がよいのかとか、どのようなときに幸せを感じるのかなど、いろいろと見えてくると思ったからです。実際に、その通りでした。


この取り組みで、私は自分をよりよく知ることができました。たとえば、自分の幸福感と、その他の要素との相関を見てみます。すると、幸福感は、家族との関わり方や、直前数日間の睡眠時間と強く相関していることがわかりました。こうした傾向を知ることで、たとえば休日に子どもと遊んでやれなかったらきっと後悔するだろうとか、最近睡眠が足りていないから早めに休もうといった判断が、迷うことなくできるようになりました。


自分というものを一歩引いて眺めて見るために、ぜひ、試してみてはいかがでしょうか。

現代の子育て事例集 - 書評: 『NewsPicks Magazine vol. 3』

NewsPicks自体は私は利用していないのですが、最近書店でたまたま見かけた『NewsPicks Magazine』を購入しました。「未来の子育て」というテーマに興味を惹かれたからです。


買って正解でした。父親として、子どもをどのように育てるかということは日ごろから考えています。その見本となる事例が多々収録されていて、大変興味深く読みました。


やはり、と思ったのは、子どもをあまり束縛せず、好きなものにのめりこめるよう自由に育てるのがよい、という意見がほとんどであったことです。私自身も、自分が子どもだったころの経験から、自分の子どもはそのように育てようと思い、実践してきました。私の子どもはまだ二歳になったばかりで、何をしたいと言葉で伝えることはほとんどできないのですが、それでも、多少のいたずらなどには目をつぶり、散歩中に道端に落ちているものに気を取られたら一緒に立ち止まり、乗り物が好きなようなので休日は鉄道博物館などに連れて行く、といったことをしています。


その一方で、そこまでやるのかと驚いたものもたくさんありました。たとえば、シリコンバレーのイマージョンスクール。イマージョンとは、幼いうちから外国語環境に浸らせることだそうですが、こうした学校では幼稚園生・小学生に、英語プラススペイン語、英語プラス中国語といったバイリンガル教育を施すのだそうで、さらには、子どもが中国語を話せるようにするべく、中国語しかできない人を子どもの世話役にした夫婦の例も挙げられていました。


私はネイティブではないものの、一応日本語を含めて三カ国語が話せます。外国語ができるメリットは承知しているつもりです。それでも、あえて子どもをバイリンガルトリリンガルにしようと思いはしません。外国語を覚えることは負荷が高く、それ以外の分野での学習を妨げるのではないかと心配だからです。発音については幼いうちに聞き分けられるようにならないと後々大変なので(私も英語のlとrは、発音はできても、あまり聞き分けられません)、これはやっておこうと思っていますが、幼いうちに二つの言葉が使えるようになることにはメリットがあるのか判断しかねます。


この雑誌には、他にもいろいろな教育論が披露されています。子どもをどう育てるかに関心のある人には、ぜひおすすめしたい一冊でした。

 

 

NewsPicks Magazine vol.3 winter 2019[雑誌]

NewsPicks Magazine vol.3 winter 2019[雑誌]

 

 

決断のための拠り所としての普遍化可能性 - 仕事と父親としての役割

最近、前職の後輩と食事をしました。退職した身だからかえって相談しやすいのか、会社の中でどのような仕事をするべきかとか、何を勉強するべきかといったことを訊かれました。その中で、私自身がどのようなことをしたいのか、ということも話す時間がありました。


やりたいことはいろいろとありますが、それを全部挙げたところで、時間を浪費するばかりであまり意味はないと思います。そこで、もう少し抽象的に簡潔に答えられはしないものかと考えました。


私の答えは、「世の中の大半の人が私と同様の生き方をするようになっても、社会が回っていくような生き方がしたい」というものです。倫理学の言葉を使うなら、「普遍化可能性が高い生き方」とでも言えるでしょうか。


いまの分業の世の中では、全員が特定の分野の仕事をこなすだけでも、社会が回ります。というより、社会がよりよくなるために分業がなされていると言ったほうが正確でしょう。


しかし、あまりに専門的な特殊な仕事に人生を捧げて自分が満足できるかというと、そうは思えません。自分が生きるのに必要なものは、すべてとはいかなくとも、できるかぎり自分で用意できるようになりたい。それは、言い方を変えれば、自分と全く同じ生き方をする人しかいなくとも、社会が成り立つような、そんな生き方をしたいということです。


たとえば子育て。私には幼い子どもがいます。いま、私は毎晩帰宅が遅いので、平日の子どもの夕食や風呂などは、すべて妻が面倒をみてくれています。さらに、私は土日にも多少仕事をせねばならないことがあります。そのようなときには、父親としての役割を果たせていないと痛切に思います。男女共同参画とか、働き方改革といったことが言われていますが、私が望むものは、こうした動きと目的をある程度共有しているようです。


これからも、自分がよく納得できるように、何かしら大事な判断をするときは、普遍化可能性を一つの拠り所としたいものです。

家族にとっても自分にとっても望ましい生き方を見つけること――2019年を実りある一年にするために

年末に書いたことはあくまで私個人についてのことだったのですが、今回は、もう少し範囲を広げて、家族についてのことを書きます。

 

ここ数年、年始にはいつも一年の目標を立ててきました。昨年の目標は、生き方を見直すきっかけをつくること、具体的には、転職をすることでした。その目標は、完全に願った形でとはいきませんでしたが、達成できました。それ以前は、仕事と自分のやりたいこととが乖離しており、仕事をすることが自分の前進につながっているという実感がありませんでした。今は、仕事の全部が自分の望んだものというわけではありませんが、自分の成長につながる仕事ができています。これは、転職という決断をしなければ得られなかったことで、この点で、私は正しい選択をしたと思っています。

 

しかし、得られたものがあった一方で、失ったものもあります。家族との時間です。幼い息子とは、朝こそ少し一緒に過ごす時間はありますが、夜の時間を共有することはできません。妻とも、平日にはゆっくり話す時間がありません。何より、私が朝早くに家を出て夜遅くに帰ってくる生活をすることは、妻への負担が大きすぎます。

 

妻も仕事をしています。短時間勤務であるとはいえ(あるいは、短時間勤務であるからこそ)、仕事も子どもの世話も一人でしなければならないのは過酷です。妻が家事や育児をしている時間に私は働いているわけですが、だからといって負担が同じであるとは言えません。私にとっては家族との時間が限られることはストレスですが、その一方で、仕事は好きでやっていることです。しかし妻は、育児があるために自分のしたい仕事ができてはいませんし、いくら子どもが可愛くても、自分の時間がほとんどとれないのでは、何か目標に向かって努力するといったことも難しいです。私も休日はできるだけ子どもの世話をしますし、妻に休んでもらおうと努めてもいますが、結局土日に仕事をすることもあります。

 

いまの仕事の仕方、いまの生活を、ずっとつづけることはできそうにありません。それは、私が望む生き方でもありません。

 

2019年の目標は、「家族にとって望ましい生き方と自分自身が望む生き方の両方をとる方法を見つける」と設定しました。その方法とは、新しい仕事を見つけることかもしれませんし、何かしら自分で仕事を始める目途を立てることかもしれませんし、いまの仕事の仕方を変えることかもしれません。どのような答えに至るにせよ、家族の幸せのためにこういう生き方をするのだという未来図をもつことがゴールです。もちろん、そこからさらに進んで、そのために具体的に動き始められればなおよいです。

 

このために、まずは手帳を買いました。今後どのようなことをしたいか、思いついたことを、毎日一言でも記録していくことにしました。そうして、そうしたアイディアから、家族の今後のあり方を少しずつ具体的にしていくつもりです。

 

 

 

2019年を迎えるにあたって

私は流行の音楽に疎いのですが、年に一度、紅白歌合戦だけは観ています。音楽に限らず、その年にどのような出来事があって、どのような人が活躍したかということがダイジェストで紹介されるので、これだけで、ある程度は流行が分かります。ただ、やはり楽しみなのは音楽そのものです。

 

私は音楽の経験がないので、それぞれの音楽家が技術的にどれくらい優れているのかといったことは分かりません。それでも、音楽には心揺さぶられます。今この文章を書くことにしたのも、椎名林檎宮本浩次のパフォーマンスに強い印象を受けて、それを忘れないようにしたいと思ったからです。

 

私は本来文化・芸術に関わることをして生きていきたいと望んでいました。それがいろいろな理由があって、いまは普通のビジネスの仕事をしています。その人生に不満があるわけではありませんが、やはり、どこかもの足りないところがある。音楽とか、映画とか、舞台とか、小説とか、絵画とか、そういったものに時どきにでも触れると、心の中に、かつての望みがふと頭をもたげてきます。

 

こうした望みを黙殺する必要もないのではないのかと、最近は思い始めました。もっと言うと、たとえそれで生きていくというわけではなくとも、何かしら作品と呼べるようなものを残してみたい。それがどのようなものかはまだ分かりません。いわゆるものづくりのようなことかもしれませんし、学生のころにやってきたある活動のつづきをするということになるかもしれません。いずれにせよ、自分がいま本職としていることとは別に、自分がしたいことを自分がしたいようにする時間を、日常の中に、わずかにでも確保する、そうして何かしらをつくる年に、2019年をしたいと思います。