頭の中に種をまく

その時々に読んだもの、見たもの、聞いたものについて考え、紹介します。

決断のための拠り所としての普遍化可能性 - 仕事と父親としての役割

最近、前職の後輩と食事をしました。退職した身だからかえって相談しやすいのか、会社の中でどのような仕事をするべきかとか、何を勉強するべきかといったことを訊かれました。その中で、私自身がどのようなことをしたいのか、ということも話す時間がありました。


やりたいことはいろいろとありますが、それを全部挙げたところで、時間を浪費するばかりであまり意味はないと思います。そこで、もう少し抽象的に簡潔に答えられはしないものかと考えました。


私の答えは、「世の中の大半の人が私と同様の生き方をするようになっても、社会が回っていくような生き方がしたい」というものです。倫理学の言葉を使うなら、「普遍化可能性が高い生き方」とでも言えるでしょうか。


いまの分業の世の中では、全員が特定の分野の仕事をこなすだけでも、社会が回ります。というより、社会がよりよくなるために分業がなされていると言ったほうが正確でしょう。


しかし、あまりに専門的な特殊な仕事に人生を捧げて自分が満足できるかというと、そうは思えません。自分が生きるのに必要なものは、すべてとはいかなくとも、できるかぎり自分で用意できるようになりたい。それは、言い方を変えれば、自分と全く同じ生き方をする人しかいなくとも、社会が成り立つような、そんな生き方をしたいということです。


たとえば子育て。私には幼い子どもがいます。いま、私は毎晩帰宅が遅いので、平日の子どもの夕食や風呂などは、すべて妻が面倒をみてくれています。さらに、私は土日にも多少仕事をせねばならないことがあります。そのようなときには、父親としての役割を果たせていないと痛切に思います。男女共同参画とか、働き方改革といったことが言われていますが、私が望むものは、こうした動きと目的をある程度共有しているようです。


これからも、自分がよく納得できるように、何かしら大事な判断をするときは、普遍化可能性を一つの拠り所としたいものです。