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なぜ経営の力が求められているのか - 書評: 三枝匡『経営パワーの危機』

『戦略プロフェッショナル』に引き続き、三枝匡の『経営パワーの危機』を読みました。『戦略プロフェッショナル』が、そのタイトルの示す通りに企業の戦略のありかたを中心に論じているのに対し、『経営パワーの危機』は人の上に立って判断をする能力をいかに学ぶかということがテーマとなっています。話の流れとしては、大企業の一課長であった主人公が、投資先の会社に社長として派遣され、その会社を立て直すべく七転八倒するというものです。テクニカルな面よりは人間の成長に焦点が当てられ、組織作りのあるべき姿が論じられています。

 

最も印象に残った部分を引いておきます。

 

日本企業がここまで来るには、誰にとってもあまりにも死にもの狂いの時代だった。会社は次々に借金を重ね、無理でも投資を続け、みな朝から夜遅くまで必死に働き、ひたすら会社の発展のために走り続けた。
早い話が、あいつは誰より優秀だからどんどん昇進させろとか、こいつは能力がないから追い出せなどと個人を問題にするよりも、入社年次で全員を十把ひとからげの団子にして働かせるので十分だったのである。
このシステムのおかげで、新入社員のほぼ全員が、もしかすると自分は社長になれるかも知れないと錯覚した。しばらくすると、社長は無理にしても、間違いなく役員にはなれるだろうと錯覚した。しばらくすると役員になるのはダメかもしれないが、しかし部長にはなれそうだと錯覚した。

 

私は高度成長期がどんなものだったか知りません。この引用部分は、高度経済成長を支えた制度の論理が端的に表現されていて、なるほどと思いました。もちろんこれは過去の事実を一面的に捉えたものにすぎないかもしれません。しかし、自分が出世できるだろうという「錯覚」が社員に与えたモチベーションが大きなものであったことは本当だったのでしょう。

 

この錯覚が維持されるには、高く評価されている人とそうでない人との給与に大した差がないといった、扱いの均質性が必要です。周囲にあからさまに自分よりよい待遇を受けている人がいたら、自分が出世することは難しいと認めざるをえません。一方、待遇に大差がないのであれば、自分が人並み以上に出世する可能性を信じることができます。

 

もちろん、ただ待遇が均質であればいいというわけではないでしょう。たとえ待遇が均質でも、その水準が低ければ、満足する人は少ないはずです。したがって、よほど周囲の人々より劣っているのでない限りは、構成員にある程度以上の報酬を保証することが必要になります。これには多大なコストがかかりますが、経済が成長しているならば、そのコストを支払うことも難しくはないのかもしれません。

 

しかし、時代は変わりました。もはや日本の多くの企業は、全員に満足するほどの収入を提供できるほどに豊かではありません。そうであれば、生き残りをかけた企業は、より優秀な社員により多く報いるはずです。すると、多くの社員は、自分がそうしたエリートでないことを知り、自分が出世できるであろうという「幻想」などもてないことになります。すると、そうした評価されない社員のモチベーションは低下します。しかも、こうした組織内でのモチベーションの低下は、本来エリートであったはずのメンバーにも作用しえます。

 

そこで初めて、人によりよくあろうと努力させる力、人にそのための意欲を引き起こさせる力が求められるようになります。それが経営的人材に求められる要素の一つとなるのでしょう。

 

ここでは、モチベーションという観点のみについて、私なりの理解を記すにとどめました。この本では、経営の力がどのように醸成され発揮されるのか、多様な観点から具体的に描かれています。今の社会にどのような人物が求められているのか、そして、自分がどのような人物になりたいのかを考える手掛かりが散りばめられています。

 

 

経営パワーの危機―会社再建の企業変革ドラマ (日経ビジネス人文庫)

経営パワーの危機―会社再建の企業変革ドラマ (日経ビジネス人文庫)

 

 

『戦略プロフェッショナル』についての記事はこちら。

 

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