頭の中に種をまく

その時々に読んだもの、見たもの、聞いたものについて考え、紹介します。

文学が現実に対してもつ力

出身学科の教授が一人退官され、公開の最終講義が行われたので、久しぶりに大学に行きました。私は文学部の出身です。文学といえば、世間からすると、世の中の役に立たないもの、就職するにしてもつぶしの効かないものと考えられているでしょう。出身者としても、これは半分当たっていると思います。


文学をやる人の半分くらいは、文学が役に立たないものだということを認めた上で、しかし自分にとっては大事なものだからと取り組んでいるようです。残りの半分は、文学は言葉という基本的なものを考えるものであるからとか、人間の心理を解明する資料になるといった理由で、世の役に立つはずだと考えているように見えます。


私は、後者の意見に与しながらも、他のもっと直接に社会と関連する学問、たとえば工学とか経済学とか法学といったものと比べると、文学はやはり役に立たないと言わざるをえないと考えます。


しかし、それでも、文学研究には存在する価値があると信じます。その信念は、今回久しぶりに多くの文学研究者たちと交わって、思いを新たにしたものでもあります。


文学は、人に道を示すことができます。それは万人にとっての進むべき道ではないかもしれませんが、ある文学作品に自分の生き方を示してもらったという経験をした人は、少なからずいるのではないでしょうか。私もその一人です。


私が最も影響を受けた文学作品は、高橋和巳の『悲の器』です。大学受験を半年後くらいに控えたときに読み、そこで描かれている学者の生き様に感銘を受けて、文学部に進むことを決めました。人生の節目における決断で、人の意見をよく聴き参考にするのは、普通ことでしょう。その参考とするものが、文学作品中の登場人物であったり、文学作品自体であったりすることもありえます。なかなか信じられない人もいるかもしれませんが、文学作品に現実以上の現実味を覚える人もいるのです。


文学作品が現実に力を及ぼしえるのであれば、役に立つか立たないかといった実利的な観点からも、文学研究に価値を認めることができるでしょう。それは、私たちを物質的に豊かにするものではないかもしれませんが、私たちの心を動かし、決断させるものです。